1300年以上前、当時友好国であった朝鮮半島の国「百済」が「唐(当時の中国)」と「新羅(百済とは別の朝鮮半島にあった国)」に滅ぼされてしまいます。再興をめざす百済を支援するため当時の政権は援軍を送りましたが敗北してしまいました。この戦いが「白村江の戦い(はくそんこうのたたかい 又は はくすきのえのたたかい)」で歴史の授業で習った記憶のある方は多いかと思います。戦いに敗れた結果、これらの国々に日本列島に攻め込まれる可能性が生じ対馬、九州北部から畿内にかけて防御のための城が築かれました。城というと戦国から江戸時代がイメージされますがそのはるか昔、7世紀に外国の侵攻に備えた城が存在していました。そんな古代の城跡、九州北部の大野城跡、基肄(きい)城跡、鞠智(きくち)城跡を訪ねました。
大野城跡
大野城跡は福岡県宇美町、太宰府市、大野城市にまたがる日本最古と言われる古代山城跡。最寄り駅は西鉄大宰府線の大宰府駅になりますが歩くと50分程度かかり、バスを利用しても最寄りのバス停から距離があるため車利用をお勧めします。城跡一帯が「四王寺県民の森」として整備されており駐車場もあります。
まずは大宰府方面からの入り口である大宰府口城門跡を見学します。


唐、新羅の侵攻に備える必要が生じた倭国(当時の日本)は大野城を築き、博多湾の近くにあった「那津官家(なのつのみやけ)」といわれる九州を統治する行政機関を大野城の近く、現在の大宰府に移したとされています。これが大宰府の始まりとされ大野城はまさに大宰府政庁を守るための城であったと考えられています。
大宰府口城門跡のあとは県民の森センターの横から主城原礎石群を目指します。


遊歩道はこのあたりは広さはあるのですが整備が十分とは言えず少し荒れたところはあります。
20分程度で主城原礎石群に到着します。


城跡の中央部の高台にあり建物跡が複数見つかっています。今は礎石が残るのみですが役所的な機能を持った建物があったと考えられています。主城原礎石群から北石垣、北石垣城門跡を目指しますがロープが張られ入れないところもありよくわかりませんでした。
已む無く小石垣を目指します。小石垣までは急な坂を下っていきます。道は狭く荒れているところが多く注意が必要です。


結局下りきって川を渡ったところに小石垣はあります。確認できる部分は少ないですがこれだけでも貴重かと。
小石垣から下ってきた道を北石垣まで戻ったあとは反対側の百間石垣まで下っていきます。こちらも道は荒れているところが多く注意が必要です。車道まで下ったところに百間石垣はあります。


全長が約180mある大野城跡最大の石垣です。内部まで石を詰めた「総石垣」構造で、地下水を排出するための吐水口が設置されるなど水に配慮した仕組みが見られるようです。当時の技術の高さ、人々の知恵に驚きです。
百間石垣から車道を歩き大宰府口城門跡近くの駐車場まで戻ります。今回の行程で3時間程度、遊歩道は勾配がきつく荒れているところもあり山歩きの装備は必要かと。
基肄城跡
大野城が大宰府の北側に築かれたのに対し、南側に築かれたのが基肄城でやはり大宰府を守るための城で同じ時期に築かれたと考えられています。基肄城跡は福岡県筑紫野市と佐賀県基山町にまたがる基山に築かれた山城跡で一帯は基山公園として整備されていています。こちらもアクセスは車利用をお勧め、頂上近くまで車で上れ草スキー場の近くに駐車場もあります。まずは頂上を目指します。


結構急な上り、ゆっくり歩いて25分程度といったところでしょうか、頂上近くのタマタマ石、天智天皇欽迎之碑に到着します。


タマタマ石とはかつてこの地にあったと伝わり現在は山麓にある荒穂神社の磐座とされています。磐座とは古代の信仰において神が宿るとされる、あるいは降臨するとされる岩のこと。天智天皇欽迎之碑はこの城が天智天皇の命により建設されたとされることから建てられたようです。
頂上から丸尾礎石群を目指します。




丸尾礎石群は丸尾西、丸尾北、丸尾南と3つの礎石群があり、多くの建物が建っていたと推測されます。
丸尾礎石群から東北門跡を目指します。


門跡らしい感じがします。説明書きによればこの東北門を通るルートは近世にも利用されていたようです。東北門から来た道を引き返します。丸尾礎石群、頂上を経由し駐車場まで戻ります。
車に乗り水門跡、南門跡を目指します。水門跡までは車で行けますが、道路が非常に狭い集落の中を通っていきます。地元の方の迷惑を考え、集落の手前に車を置いて歩くことにしました。


水門は谷を塞ぐように築かれた石塁に川の水を流すために作られたもの。この水門の他にも排水機能を持つ通水溝が見つかっているようです。また水門の横に南門があったのではと推測されているようです。


水門跡、南門跡見学後基肄城跡を後にします。
今回の行程で3時間程度、遊歩道は比較的整備されていますが、ルートによっては(多分あまり人が通らないルート)草木が生い茂り道がよくわからないルートもあります。大野城跡同様山歩きに必要な装備は必要かと。
鞠智城跡
鞠智城跡は熊本県山鹿市にあり大宰府から距離はあります。大野城、基肄城が大宰府を守る城であったのに対し鞠智城はこれらの城に食料や武器、兵士を補給する基地として築かれたのではと考えられています。
アクセスは車利用をお勧め、九州縦貫自動車道植木ICが最寄り(ICから25分程度)になります。一帯は歴史公園として整備が進んでいて無料のガイド施設(温故創生館)もあります。ガイド施設でビデオを視聴後散策をスタートします。
目の前に鼓楼(八角形建物)が再建されていて歴史公園のシンボルになっています。


この建物、あくまでも推定による再建のようですが発掘調査により少なくとも八角形の建物が存在していたことは判っているようです。発掘現場を保存するため再建は少し離れたところにされています。
鼓楼の横に米倉が再建されています。


湿気を防ぐための高床の校倉造りや少し解りにくいですがねずみの害を防ぐ「ねずみ返し」といわれるしくみが見られます。
米倉から防人たちの生活の場である兵舎を見学し灰塚展望所に上ります。


灰塚展望所からは周囲を一望できます。
展望所から少し歩くと西側土塁線があり、実際に土塁の上を歩くことができます。


西側土塁を歩いたあとは展望所に戻り池ノ尾門跡に向かいます。


説明書きによれば池ノ尾門跡では軸摺穴(じくずりあな)といわれる扉などをささえる穴が残る礎石や排水のための通水構などの遺構が確認されているようです。
池ノ尾門跡から南側土塁線を経て深迫門跡に向かいます。




深迫門跡は南東隅に位置し門礎石の他色んなものが発掘されているようです。南側土塁線や深迫門跡の説明書きを読んでいるとあらためて当時の土木技術の高さに驚かされます。深迫門跡から温故創生館に戻り終了します。
今回のルートで約3時間の行程、他にも見るものはあり古代史に興味のある方は1日かけて回ってもいいぐらいの規模感です。
九州北部にある古代の城跡三ヶ所を訪ねました。中世以降の城に比べ残っているものや記録も少なく判らないことが多いのが現実と言えます。ただだからこそ色んな事が想像できる、それが古代史の魅力の一つとも言えるかもしれません。外国の侵攻に備えて築城された古代の城跡を訪ね悠久のロマンを感じてみてはいかがでしょうか。(各種交通機関、各施設等の情報は公式HP等で最新のものをご確認ください)

