備中高松城跡を訪ねて

国内旅

歴史にはいくつかのターニングポイントがありますが戦国時代に天下統一を果たした豊臣秀吉のターニングポイントとしてよくあげられるのが「中国大返し」といわれる行動です。主君織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺害されたことを知った(当時は羽柴)秀吉は備中高松城(現在の岡山県岡山市)で戦っていた毛利氏と急ぎ和睦し光秀を討つべく引き返した電撃的な行動のことです。その戦いの舞台となっていた備中高松城(以後高松城)跡を訪ねました。
アクセスはJR吉備線備中高松駅から徒歩で10分程度、車利用の場合は岡山自動車道岡山総社ICから15分程度です。城跡は公園として整備されていて駐車場もあります。
車を利用、駐車場のあるところが三の丸跡になり高松城跡に関する説明書きや水攻め築堤跡高さの表示板があります。

高松城の戦いで取り上げられるのが秀吉による水攻めです。高松城は低湿地に位置するいわゆる「沼城」で周辺の沼地が天然の堀の役割を果たしていて秀吉軍は思うように攻られなかったようです。そこで取り入れたのが水攻めで堤防を築き川の水を引き入れ高松城は湖の孤城にされました。高松城を救済すべく毛利方の援軍が到着した頃には手も足も出せないような状況になっていたようです。周辺には水攻めに関する史跡も残っています。
二の丸跡にある資料館を訪ねます。

資料館では水攻めに関する資料や戦いに関するビデオを見ることができます。理解が深まるので見学されることを勧めます。
資料館から本丸跡に向かいます。

本丸跡には自らの命と引き換えに籠城する城兵とその家族の命を救った城主清水宗治の首塚や辞世の句碑があります。

戦線は膠着状態となっていましたが秀吉側に本能寺の変の知らせが届きます(諸説あるようですが毛利方が知ったのは和睦成立の後とされています)。和睦が探られる中、自分の首が条件となっていることを知った宗治は味方の毛利方が難色を示しているにもかかわらず城兵の命が助かるのならと受け入れます。湖の孤城となった高松城から船を出しその上で敵軍の大将秀吉からも「武士の鏡」と称される見事な最後を遂げます。
本丸から公園の外に出て少し歩くと胴塚があります。

説明書きにも書かれていますが見事な最後を遂げた宗治の胴体遺体(この時代、首は敵方が持っていきます)が船に乗ったまま家臣や家族のもとに帰りました。悲しみは想像を絶するものかと思いますが手厚くこの地に葬られたとのことです。
胴塚から駐車場の方に戻り少し歩くと宗治自刃の地やごうやぶ遺跡があります。

水攻めによってできた湖の上に船を漕ぎだし自害した宗治ですがその場所は現在は妙玄寺というお寺になっているあたりとされています。境内に供養塔があります。また近くにあるごうやぶ遺跡は宗治の後を追って家臣たちが差し違え殉死した場所といわれています。
城跡(公園)から水攻めの遺跡が残る蛙ケ鼻というところに移動します。

こちらも史跡公園として整備されていて城跡(公園)から歩ける範囲かと思います。車利用の場合は途中の道が狭くまた駐車場も小さい(3台程度)ので注意が必要です。

水攻めに使用した堤防の一部が残っており、また近年行われた発掘調査で基底部にあった木杭や土俵、むしろが確認されたようです。
蛙ケ鼻から石井山にある宗治の首塚跡、秀吉の本陣跡を訪ねます。徒歩15分程度で到着します。

説明書きがありますが、秀吉はこの地にあった持宝院という寺に本陣を置いたとされています。宗治の首は秀吉による首実検のあと寺の境内に手厚く葬られましたが、その後明治になり地元の偉人に対する顕彰の思いから高松城本丸跡に移転されたようです。
秀吉本陣跡からは高松城跡が一望できます。本陣の横の谷間は軍馬繋留地として使われていたようです。

後に天下人となった秀吉はどのような思いで湖の孤城となった高松城を眺めていたのでしょうか。また宗治は沈みかけた高松城からどのような思いでこの秀吉の本陣を見ていたのでしょうか。色んなことを想像しながら帰路につきます。 

備中高松城跡を訪ねました。蛙ケ鼻や秀吉本陣跡まで含めて3時間程度の行程です。
城跡には当時のものはほとんど残っていないようですが宗治の首塚や辞世の句碑などがあります。また近隣には水攻めの堤防跡や秀吉の本陣跡など戦いの痕跡を見ることができます。秀吉による天下統一のターニングポイントの舞台となった城跡やその周辺を訪ね、家臣やその家族のために自らを犠牲にした宗治や後に天下統一を成し遂げた秀吉に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。(各種交通機関や各施設等の情報は公式HP等で最新のものをご確認ください。)