奈良宇陀路 大宇陀を訪ねて

国内旅

奈良県東部の宇陀市に大宇陀と呼ばれる地域があります。古代には宮廷の狩場となり柿本人麻呂がこの地で和歌を詠んでいます。中世以降は有力国人領主の秋山氏が支配していましたがその後支配者が入れ替わり江戸時代には織田松山藩の城下町として、その後は幕府領となり栄えました。そんな大宇陀を訪ねました。
アクセスは近鉄榛原駅からバスで20分程度、車利用の場合は「阿騎野・人麻呂公園」か道の駅「宇陀路大宇陀」の駐車場が利用できます。道の駅から散策を開始、酒蔵通りを歩きます。

古い街並みが残り風情があります。ほどなく青木月斗の句碑の案内があります。

青木月斗は明治から昭和にかけて活躍した正岡子規門下の俳人。戦争中に当時の大宇陀町に疎開、4年後この地でなくなりました。
酒蔵通りを一巡後はまちかどラボ(観光案内拠点)で宇陀松山城跡のパンフレットをもらい訪ねます。

登山道に入ってほどなく城跡まで600mの表示。道は舗装された緩やかな上りで歩きやすいです。残り100mのところに案内板がありますがそこまでは舗装した道が続きます。

残り100mは舗装がなくなり道幅が狭く傾斜もきつくなりますが整備はされています。
説明書きがないのではっきりとは分かりませんが横堀や曲輪の跡と思われるところがあります。

横堀(だとすれば)は保存状態は良いと思います。
ほどなく本丸跡に到着、その上に天守郭跡があります。

本丸からの見晴らしは良く周囲が見渡せます。また本丸から二の丸が見えますが発掘調査が行われている影響か入れませんでした。
宇陀松山城は宇陀地方支配の拠点であるとともに宇陀から伊勢を通る街道を押さえる役割を担っていたと考えられています。平安時代から大和国は実質的に興福寺が支配、国内に興福寺領の荘園が広く存在していました。その荘園の現地管理を担う荘官として成長を遂げたのがこの地を支配し城を築いた秋山氏で「宇陀三人衆」と称されたようです。
下りは春日神社に通じる別ルートで下ります。

春日神社の入り口のところに春日門という門があったようです。説明が書かれていますが町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として作られたことが明らかになったようです。

春日神社に参拝した後は古い街並みが残る上町通り、松山通りと呼ばれる通りを歩きます。

このあたりは薬のまちとしての側面もあり薬草の栽培なども行われていたようです。江戸時代末期に建てられた薬問屋の建物や薬園があります。
古い街並みを散策後は松山西口関門に行きます。

江戸時代初期に建てられた門で黒く塗られていることから「黒門」と呼ばれているようです。
松山西口関門から阿紀神社を目指します。国道に出て南に歩くと高校(宇陀高校大宇陀学舎)があり高校の反対側に案内があります。小さめの案内なので見落とさないよう注意が必要です。

由緒ある神社で神明造りの本殿と現在では珍しい能舞台があり「あきの蛍能」が毎年披露されているようです。
すぐ近くに高天原といわれるところがあります。

説明書きがありますが後の持統天皇(鸕野讃良皇女 うののさららのひめみこ)が壬申の乱の際、夫の大海人皇子(後の天武天皇)と吉野からこの地を通り東国に脱出、その時の思い出深いこの山に自分の和風名「高天原廣姫(たかまがはらひろのひめ)」にちなんで名付けたとのこと。
高天原から大きな体育館に向かって歩いていくと阿騎野・人麻呂公園があります。

飛鳥時代の遺構が発見された場所で柿本人麻呂の騎馬像や当時の建物が再現されています。
阿騎野・人麻呂公園から道の駅に戻り帰路に着きます。歩いて回りましたが宇陀松山城跡への時間を含め3時間から3時間半程度の行程です。

奈良宇陀路・大宇陀を訪ねました。宇陀三人衆と呼ばれた秋山氏の城下町として発展、豊臣家配下の大名、織田家の治世を経て幕府領へ移り変わる中で商家の町として栄えました。古い街並みにその面影を見ることができます。また宇陀松山城は江戸時代初期に破城となりましたが近年の発掘調査から城郭の姿が明らかになるとともに破城の様子も伝える貴重な遺跡として注目度が増しているようです。古代から中世、近世と色んな歴史にふれられる大宇陀を訪ねてみてはいかがでしょうか。(各種交通機関、各施設等の情報は公式HP等で最新のものをご確認ください。)